【競輪平成のベストレース】その2 4ギア時代の到来から平成の終わりまで。

平成のベストレース 競輪その2

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31年に渡った平成時代のギャンブル名勝負を振り返るシリーズ。
平成前半では中野浩一から吉岡稔真神山雄一郎時代に移ろいだ平成前半の名勝負を取り上げたが、平成後半の競輪は短期間で大きな変化を繰り返した。
だが、「変わらない仕事」もある……

レースが変化しようとも喰らいついたベテラン渡邉晴智

「大ギヤは疲れると言うけれど、踏みこなせたらスピード出るし最強じゃね?」
山崎芳仁選手がこう言ったかはわからないが、それまで競輪界で主流だったギヤ倍数は3.57(※ペダル一回転で後輪が3.57回転する。一般的なママチャリで2.0程度。チェーンと連動するギヤの歯数を調整した結果は公表されて出走する)であった。
そこへ山崎芳仁選手は3.71のギヤで平成18年(’06年)にG1初優勝、さらにはその後4.00以上の調整で走り出し、G1で活躍して「4ギヤ時代」が到来、競輪の競走形態が一変したのだ。
レース革命を起こし「4回転モンスター」の名をほしいままにした山崎芳仁選手は現在G1を9回も優勝する平成の名選手となった。
そんな山崎芳仁選手の絶頂期だった平成20年(’08年)の日本選手権決勝

レースは打鐘で前に出た小嶋率いる中部ラインに対し、渡邉晴智合志正臣を後ろに付けた山崎がホームで一気に叩いて先行。
そのまま別線を寄せ付けず、ゴール前で番手渡邉が山崎を捉えて優勝した。山崎の圧倒的脚力が目立ったレースだった。
「このレースを見ると、何で山崎はここまで教科書通りの先行をしたのか、と。この頃の山崎は4回転モンスターの名称と共に全盛期を迎えていた。そして自身はまだダービーのタイトルを取っておらず、競輪界最高峰のタイトルは喉から手が出る程欲しかったはずだ」
確かに山崎選手のラインは、同地区北日本ではない南関の渡邉晴智選手だ。
「気をつかう相手ではなかったはず。自分が勝つ為に大ギアを生かしたいつも通りの捲り(別のラインに先に仕掛けてもらい、スピードを生かして一気に追いかける)でも全く問題なかったんじゃないかという声を聞く。でも山崎はそうしなかった……それはなぜか? 展開がそうなったからと言えばそれまでだが、準決勝に神懸かった強さを発揮して孤軍奮闘勝ち上がった地元のエースに対して、何か感情が揺さぶられる部分があったような気がする。大声援が送られている地元のエースに恥をかかせない組み立てをしてゴール前で真っ向勝負がしたい。山崎はそう考えたように思える」
当時、静岡県所属の選手でG1を勝ったことがある選手は平成17年(’05年)に高松宮記念杯競輪(大津びわこ競輪場)で優勝した村本大輔選手しかいなかった。
つまり、静岡競輪場で開催されたG1で地元優勝を決めた選手は一人もいなかったのだ。
ベテランとなっていたが地元のエースだった渡邉晴智選手への期待は大きく、大声援が贈られる競輪場の空気が、山崎芳仁の心を揺さぶったのではないかとは思われている。
「当時の渡邉の優勝後のコメント第一声が『山崎君のおかげです』。そして山崎も敗れたとはいえ役目は果たしたという晴々とした表情でしたね」

変化する競輪、変わらない部分を認識

平成後半の競輪は主に大きく3つの時代に分かれていると思う。
徹底先行時代村上義弘伏見俊昭の先行。それに対峙する山田裕仁
大ギヤ時代>「4回転モンスター」山崎芳仁の影響
競技組隆盛>自転車競技との両立選手が競輪でもスピードの違いで圧倒する新田祐大脇本雄太
今回取り上げたのはその中の2番目にあたる大ギヤ時代のレースだったわけだ。
「平成の競輪を一言でいえば『繋がりと感情』の競輪だったと個人的には思うのだが、このレースはまさにその感情の部分が体現されたレースだったじゃないかと思っている。今後、競輪も時代の流れに応じてレース形態も選手の意識も変わっていくが、人間が博打の駒をやっているという意味、そしてその面白さ。それだけは忘れないで欲しいと願うばかりだ。」
人が走るから……競輪は複雑な競技だと言われがちではあるが、競輪を味わう基本は「人とは何か」を考えることなのかもしれない。
これからの競輪も名勝負が生まれていくだろうが、それを楽しむために競輪の味わいを伝えていけたらいいな、と改めて思った。