先行マニア73期村上義弘選手とは?賞金,戦績,プロフィール,プライベートを公開

73期村上義弘選手選手とは?

村上 義弘(むらかみ よしひろ、1974年7月6日 – )は日本の競輪選手。
京都市出身。日本競輪学校第73期卒業
日本競輪選手会京都支部所属
血液型はO型。

3姉弟の真ん中で姉と弟がおり、その弟は同じく競輪選手の村上博幸(86期)。
競輪ファンの父親に、幼いときから競輪場(向日町・びわこ)に連れられてきたこともあり、選手を目指すようになっていった。
特に先行選手の滝澤正光選手に憧れていたという。

花園高等学校在学中より国体の自転車競技で優勝するなど活躍する。高校3年生の時に先輩で現役競輪選手の山本真矢に紹介され、松本整と出会った。
松本と出会った当初は、バンク練習で松本についていくのが精一杯で、「30代でこんな強い選手がいるのか」と驚愕するほど、競輪選手のレベルの高さを思い知らされることとなる。
高校卒業後に第73期生として日本競輪学校に入学する。
卒業後は徹底先行を身上とする選手としてその名を高めたが、怪我などもあってなかなかS級上位で活躍する選手とはなれなかった。しかし、2000年の豊橋競輪場でのふるさとダービー豊橋を制した頃より次第にその強さを増していった。

73期村上義弘選手は、競輪選手としては珍しく師匠がいない

競輪選手としては珍しく、師匠がいない(選手プロフィールを参照)。
但し、自身は弟・村上博幸の師匠ではある。
非常に練習熱心で真面目な性格であるが、競輪界有数の激しい気性を持つ。しかし情に熱い男であり、2002年3月の西宮競輪の最終開催となった開設記念競輪「阪急ダイヤモンド賞」で優勝した際、詰めかけた大勢の観客の前で自らの自転車を高く掲げるパフォーマンスで、西宮競輪場の最後を惜しんだ。
2004年の高松宮記念杯競輪で、最も尊敬している松本整が優勝後引退を表明した際、それまで松本の引退を知らなかった村上は非常にショックを受け、人目もはばからず号泣したという。2年後の同じレースでも、近畿の先輩である内林久徳が突然引退を表明したため、同じことが繰り返されてしまった。
JRA騎手の武豊と親交があることでも知られる。
根っからの自転車好きであり、趣味は練習後のサイクリングと語っていた事がある。またSPEEDチャンネルの番組で村上の自宅が取材された際には、海外製の高級自転車を数多く披露していた。内林久徳や京都所属の競輪選手らと共に、ロードレースに出場した時期もあった。
母子家庭で育ち、中学の頃に自分の将来について考えた時に、僕がこのまま就職しても母親と姉を楽にさせたり弟・博幸を進学させることは難しいと、金を稼ぐために競輪選手への道を目指したという。
山口幸二は大先輩であり、自身の兄貴分である。
1歳下の市田佳寿浩を「レースを通してわかり合ってきた特別な存在」と、2011年に語っている。
2018年10月の彼の引退時には、「血のつながりはなくても兄弟」「村上3兄弟の2番目が市田なんですよ」と表現し、同月24日の奈良競輪場での市田のラストラン特別レースの発起人にもなって自らも出走した。

73期村上義弘選手選手の経歴

  • 2002年 GI初優勝
  • 2002年7月28日、寛仁親王牌決勝戦。村上自身は敗れたとはいえ、レース後は大粒の涙を流し、何度も松本と抱き合った。村上自身、競輪の厳しさ、そして努力に勝る才能はないことを教えてくれた大先輩に恩返しができたことで、「今までで一番嬉しいレース」と振り返っている。
    その直後8月のふるさとダービー弥彦(弥彦競輪場)でGIIをまず制覇、そして岸和田競輪場での全日本選抜競輪を優勝、遂に念願のGIタイトルを獲得。そして、年末のKEIRINグランプリの初出場も果たした。
  • 2003年にはふるさとダービー向日町(京都向日町競輪場)、一宮競輪場でのオールスター競輪、翌2004年にはふるさとダービー福井(福井競輪場)を制するなど、村上の活躍はピークを迎える。
  • 2010年 兄弟での活躍
  • 2011年もその活躍は続き、3月の名古屋競輪場での日本選手権競輪を制覇。2003年以来8年ぶりとなるGIタイトルを奪取し、史上初となる兄弟でのダービー連覇を達成した。これにより出場権を得たKEIRINグランプリ2011は最後の直線に入った所を目の前で転倒した長塚智広に乗りあげる形で落車し再乗8着となる。
  • 2012年 KEIRINグランプリ初優勝
    2012年はサマーナイトフェスティバルの決勝2着を含め、GI決勝3回・GII決勝2回進出とコンスタントに成績をまとめ、年間獲得賞金上位でKEIRINグランプリ2012の出場権を得た。ところがグランプリに向けての練習中に自転車のチェーンが破断して落車し肋骨を骨折したが、それを公表した上で12月30日の本番に挑み、ゴール前まで成田和也と浅井康太との三つ巴のデッドヒートを僅かの差で制しグランプリ初優勝(歴代19人目の覇者)、兄弟でのグランプリ制覇と年間賞金王獲得を達成した。
  • 2013年-2014年 ダービー連覇
    2013年は日本選手権競輪の決勝において、早い仕掛けで各ラインの連携が交錯するなか武田豊樹の後位へスイッチした読みが当たり、最終バックで捲った武田を直線で追い込み2年ぶりのダービー優勝を果たした。
  • 2016年 名古屋ダービー3連覇、KEIRINグランプリ2度目の制覇
    2016年は3月の日本選手権競輪の決勝において、三谷竜生 – 川村晃司の3番手からブロックで後方への牽制を繰り返し、自身もブロックされながら堪えて最後の直線で2段駆けの川村を差し切りダービー4勝目(名古屋ダービーでは3連覇)を果たし、吉岡稔真の大会最多優勝記録に並んだ。41歳での優勝で、鈴木誠の39歳11か月(2005年3月)の大会最年長記録も更新した[8]。さらに、年末の大一番であるKEIRINグランプリ2016においては、同じ京都の稲垣裕之とラインを組み、残り半周で番手捲りを打ち、追いすがる武田豊樹らを振り切り優勝[9]。自身2度目のKEIRINグランプリ制覇(山口幸二に次ぐ年長勝利)と同時に、2度目の賞金王にも輝いた。
  • 2017年 度重なる落車に泣きSS班陥落
  • 2018年4月14日、デビューから約24年、武雄記念競輪準決勝にて通算600勝を達成(現役選手では2012年5月の小嶋敬二以来4人目)。なお、脚質登録「逃」は2月の全日本選抜競輪までで、次の静岡記念から「両」に変更した。この年は、全日本選抜と日本選手権の決勝で共に2着に入ったことなどによる年間獲得賞金上位枠で2年ぶりにKEIRINグランプリ2018への出場を果たしたが、レースは最終2センターで無念の落車棄権となった。

73期村上義弘選手の競走スタイル

デビュー以来、いわゆる「先行マニア」の典型例で、時に無謀とも言える先行を繰り返したが、そうすることによって次第に力をつけ、競輪界を代表する先行選手となった。
現在村上と互角以上の選手もいる状況にあっても、本人の先行に対する気持ちは、どの選手よりも上回っていることから、精神的な面を含めて現在も村上を「先行日本一」と評する人は多く、本人も標榜している。しかし極端ともいえるこだわりを見せていた頃には自分の形を乱される奇襲攻撃に弱い面があった。

捲りを持つ自在選手へと変化したが、2017年現在も脚質は「逃」のままで、場合によっては若手相手にも勝敗を超えた果敢な先行を見せることがあり、その走りそのものが「魂」「魂の走り」と呼ばれるようになっている。
他に、「近畿の総大将」という呼称も浸透し、さらに「近畿の総帥」とも呼ばれた。近畿ライン結束の際には自ら認めた後輩に託し、3ないし4番手をまわるレースも出てきた。かつては「華の京特急」という呼称も一部であり、KEIRINグランプリ04の際に公募で選ばれたのは「古都の風神」だった。

73期村上義弘選手の主な獲得タイトルと記録

  • 2002年 – 読売新聞社杯全日本選抜競輪(岸和田競輪場)
  • 2003年 – オールスター競輪(一宮競輪場)
  • 2011年 – 日本選手権競輪(名古屋競輪場)
  • 2012年 – KEIRINグランプリ2012(京王閣競輪場)
  • 2013年 – 日本選手権競輪(立川競輪場)
  • 2014年 – 日本選手権競輪(名古屋競輪場)
  • 2016年 – 日本選手権競輪(3月・名古屋競輪場)、KEIRINグランプリ2016(立川競輪場)
  • 年間賞金王2回 – 2012年、2016年
  • 日本選手権競輪優勝4回(吉岡稔真とタイ記録)
  • ふるさとダービー優勝4回(松本整とタイ記録)
  • 競輪祭連続20回出場(2018年)
  • 2016年12月31日時点、通算成績1807戦571勝、通算獲得賞金17億4982万4189円

73期村上義弘選手の獲得賞金

  1. 三谷 竜生選手101 奈良 SS 255,313,000 円
  2. 脇本 雄太選手 94 福井 SS 148,773,000 円
  3. 浅井 康太選手 90 三重 SS 140,962,000 円
  4. 平原 康多選手 87 埼玉 SS 105,246,400 円
  5. 村上 義弘選手 73 京都 SS 87,907,000 円