雨谷一樹選手とは
雨谷一樹選手が競輪選手目指したきっかけ
小学生の頃に地元茨城の先輩である長塚さんや十文字さん達の姿を見て「かっこいいな」って思っていた。
小学校の卒業文集にも「競輪選手になりたい」って書いているほど、幼少期から競輪選手を目指していたようである。
まず、足腰を鍛えるためにサッカーに取組み、さらに小学生時代はずっと空手、中学生になってからは並行でサッカーも始めていた。
中学校に自転車部がなかったために、足腰にトレーニングのための選択だったようである。
サッカーのポジションはフォワード。
足が速いから誰かが蹴ったボールを全力で追ってシュートするという戦法だったようだ。
中学で始めたからテクニックは無い分、そういう所で頑張ってレギュラーで10番つけていた過去がある
県の選抜メンバーに呼ばれるくらいだった雨谷選手だが、自分の夢は自転車だなって思っていたようである。
足腰を鍛えるためのサッカーであったが、それでも県の選抜に選ばれるのは1000人に一人以上の確率である。
自転車を目ぜしつつも本金で取り組んでいたことが窺える。
高校から自転車を本格的に始める雨谷一樹選手
1年生で全国大会へ
高校はOBに沢山の競輪選手がいて、近かった理由で作新学院に入った。
強豪校だけあり、同級生に強い選手が何人も居たため、みんなで切磋琢磨したおかげで成長スピードは早かったという。
1年生で全国大会にも連れて行ってもらえ、その頃に深谷(知広)と初めて会ったという。
彼も当時から有名な選手で「こいつが深谷かー」って話に行ったが、すごいシャイだから目を合わせてくれなかったという。
「あーどうもこんにちはー」って言いながら目を合わさな(笑)かったという。
高校卒業後はそのまま現役で競輪学校受けて、競輪選手の道に入って10年。
ナショナルチームにいる雨谷一樹選手は、周りにいるのが競輪でスゴい人たちすごぎると語っていた。
SSが3人。脇本さん、河端さんもスゴい人だし。自分が居るのが不思議なくらいと感じていた。
まぁ東京オリンピックが終わってからの競輪人生も長いので、オリンピックが終わってから、そっち(競輪)に切り替えてもいいと思っているという。
ロシアの選手も30歳くらいですし、東京オリンピックでは自分もイケるかな?って感じはあるという。
東京五輪出場敵わず、引退を表明した雨谷一樹選手
ナショナルチームの男子チームスプリントは『2019-20シーズントラックワールドカップ第4戦』で1日に2度の日本記録更新をし、16年ぶりの金メダル獲得を成し遂げた。
日本チームはアテネ五輪で銀メダルを獲得して以来、ずっと超えられなかった壁を乗り越え『2020世界選手権トラック』で東京オリンピック出場枠を手にする戦いへ挑んだ。
しかし、世界選手権での結果はまさかの予選敗退。
メダル獲得も視界へ捉えながら臨んだ日本チームは、目前で東京オリンピック出場権を失った。
雨谷一樹は長年に渡り、日本ナショナルチームのチームスプリント第1走主力選手として戦い続けてきた。
しかし世界選手権での結果から日本がチームスプリント出場枠を逃すと同時に、雨谷のオリンピック出場の夢も消えてしまったのである。
2020年6月4日、日本ナショナルチームはオリンピック代表内定選手を発表。
その日に雨谷は自身のインスタグラムで自転車競技からの引退を表明したのである。
最後の大会『世界選手権トラック2020』
2019-20シーズンはワールドカップでもメダルを獲得し、すごく良いシーズンだったと振り返り、シーズン序盤は自分にとって苦しい時期だたとも感じていた。
チームとしてのコンディションも上がり、金メダル獲得にも至ったと分析している
世界選手権では油断というか「これまでに出したタイムを出せればオリンピックに行ける」という様な甘い気持ちがあったという。
それがタイムが伸びなかった。
ブノワ(・ベトゥ短距離ヘッドコーチ)からも「3人とも自信を持ちすぎた」と言われた。
本当にその通りで、勝つつもりで行ったのに空回って真逆の結果になってしまっていた。
チーム競技なので誰が悪いということはなく、1人1人の結果があのタイムでした。
世界選手権が最後の大会となりどのような経緯で自転車競技引退を決意したのか
出るにしても出られないにしても、東京オリンピックを最後に(競技を)引退することは決めていたという。
またスタンディングスタートに関して、最初の半周の際の自分の体の感覚や反応が、若い時と比べて鈍くなっていることを実感していたという。
自分の体に限界を感じたことも、引退理由のひとつに上げている
最後の世界選手権は「これ以上ない」というくらいの仕上がりだったという。
その感覚をもってしても限界を感じてしまい世界選手権で自分のタイムは17秒7。
あまり良いタイムではないが、それまでの過程には満足しているという。
もちろん結果に対して悔しい気持ちは流ようだが、きちんとやることは全部やった、やりきったと語っている。
引退を決めたとき、最初に話したのは河端さん。
毎日ご飯を食べている仲なので、その中で話をしたという。
その時は軽い感じで返されたという。チームメイトに話してもそんなに重くはならずナショナルチームのグループLINEで「引退します」と報告した時、深谷(知広)が個別で返信してくれたという
「今までお前とやってきたことが・・・」みたいな内容で、ちょっと感動したという。
雨谷一樹選手これまでで最も印象に残ったレース
金メダルを獲ることができたニュージーランドでのW杯(2019-20シーズン第4戦)のレース。
それまで優勝をしたことがなかったので、喜び方もよくわからなかった。
しかし、表彰台からの景色はよく覚えているという。
一番上に立って「このために頑張ってきたんだ」って感じたという。
「オリ雨谷選手にとってはそもそもオリンピックへ出るために競輪選手になったという。
オリンピックのためにずっと頑張ってきた。
自分の「すべて」だったようである。
オリンピック出場への戦いは3回経験していて、その中でも1番想いが大きいのが東京オリンピック。
1日1日を無駄にできない状態が続き、その積み重ねが最後の最後(金メダルを獲ったW杯第4戦)に出た。
無駄な日はないと思って過ごしていたという。
ブノワコーチは1人1人のことをよく見ていて、どんな気持ちでやっているのかをすぐ見抜く。
「オリンピックのために」という気持ちがなければいられない場所。
自分にはそんな環境が当たり前になっていた。
でも、いきなりあの場所に放り込まれたら「息苦しい」となる人はいると分析している。
雨谷一樹選手のこれから
実は新しく家を建て、トレーニングルームも作ったという。
そこにこれまで獲ったメダルを全部並べて、1番上には高校生の時の、深谷とスプリントを走ってる写真を飾っている。
それが自分の原点。
その写真を見て、並んだメダルを見ると力にしているという。