競輪っていつからやってるの?≪競輪の歴史≫

競輪の歴史

 < 競輪の誕生 >

競輪の誕生は、戦後直後にさかのぼる。
競輪は元満州国官吏の海老澤清(海老澤清文)と、久留米連隊に所属し後にGHQで働くことになる元陸軍大尉の倉茂貞助(倉茂武)の2人が、東京の有楽町に「国際スポーツ株式会社」を設立したことから始まった。
競輪は当時、先駆けとして競馬、競艇が戦後復興のための事業として日本を盛り上げていたのに続き自転車競技を賭けの対象にし、その収益金を復興の資金にしようと考えられた。
その後、競輪競技を「国際スポーツ株式会社」での開催は難航し、日本政府の元で自転車競技法として法整備し、1948年に施行されることになっていく。

< 競輪の開催 >

自転車競技法が施工され、いよいよが第3回の国民体育大会から自転車競技が開催されることになったのだが競輪場の建設に莫大な資金がかかるためどの自治体も名乗り上げない中、小倉市は当時最も人気の高かった野球を同地で開催することを条件にして競輪競技開催に承諾した。
こうして1948年11月20日、小倉競輪場で初めて競輪が単独で行われた。

< 競輪山あり谷あり >

競輪が誕生した1948年(昭和23年)当時、国営競馬(現在のJRA)の控除率(寺銭)が34.5%であったのに対し、競輪の控除率は25%と低く抑えられた。

そうした背景や直接人間同士の戦いということもあって競輪は爆発的な人気になっていった。
しかし競輪独特のルールなど素人には難しいところがあったりたびたび暴動事件も発生したこともあり新聞を中心にマスメディアに叩かれていた。

1950年9月9日に兵庫県武庫郡鳴尾村(現在の西宮市)の鳴尾競輪場(後の甲子園競輪場)で400~500名のファンが金網を破りバンク内に入り5000名の観客が暴徒化し死傷者多数、約250名の逮捕者を出した鳴尾事件
そのほかにも1959年(昭和34年)6月23日、松戸競輪場第5レースの着順判定を巡って「八百長騒動」や客に対し「車券代」と称した1000円を配った松戸事件

このような競輪の不祥事が続く中で公営ギャンブルの廃止の声が上がった。
(ちなみに鳴尾事件の後、全国の競輪場で2か月の間レースが自粛された。)
そんな中、1955年(昭和30年)1月にときの農林大臣河野一郎は「競馬は、土曜、日曜、祭日以外は開催しないことを閣議で提案する」と発言し競輪もこれにつづき原則土日開催となった。
その後近畿地区を筆頭に全国の競輪場が閉鎖していった。
1967年(昭和42年)4月15日に行われた東京都知事選挙で公営競技(後楽園競輪場京王閣競輪場大井競馬場大井オートレース場江戸川競艇場)の廃止を公約に掲げていた日本社会党・日本共産党が推薦した美濃部亮吉が当選した。
その結果、1960年代には競輪総売り上げの約10%近くも占め、「競輪のメッカ」といわれていた「後楽園競輪場」は閉鎖され1988年に日本初の屋根つき野球場「東京ドーム」として再建された。
1965年(昭和40年)には競輪は各公営競技の中で倍近くもの売り上げを出していたが1973(昭和48年)に発生した第一次オイルショックが起きてから徐々に売り上げが減少していった。
競輪の衰退は以下の理由が考えられる。
• 当時は創世記時代に建設された施設をそのままにしているところが多く、場内も「鉄火場風情」が漂っていたことから気軽に来場できるような場内環境ではなかった。
• 投票券の機械化も著しく遅れ、旧来の「穴開き式投票券」を発売している施設が大半を占めていたため発走時刻の遅れが恒常化していたなどといった問題点が一向に改善されなかった。
• さらに場内の風紀浄化も著しく遅れており、場内に闊歩していたノミ屋を排除する動きは1985年2月に高知競輪場で発生した暴力団抗争事件以降本格化するが、他競技では既に着手していた。

< 競輪、希望の光 >

2011年1月14日、小倉競輪場で初めてミッドナイト競輪が開催される。
それを契機に2012年5月4日には岸和田競輪場でモーニング競輪が開催し、2012年7月には昭和期には女子競輪といわれていたガールズケイリンが約半世紀ぶりに復活した。
競輪は昭和期に最盛期を迎えてましたが平成には衰退していきましたが最近若者や競輪をあまり知らない人などもメディアの発達や競輪界の頑張りにより盛り上がりをみせています。
中野浩一選手の「世界選手権十連覇」や「日本プロスポーツ史上初の1億円プレーヤー」などなど競輪はたくさんの偉業を残してきたんだって!
競輪はあんまり知らなかったけどこうやって調べていくと結構面白いもんだね。笑